直接感じられないことを、感じ取ることができない。
自分が生かされていることを、考えたことがない。
とても残念で、腹立たしいことだ。
お膳立てをしてもらっていて成果が出れば、自分だけの成果だと勘違いをしてしまう。
陰で支えてもらっていることには目を向けることができない。
言葉を選ばず記載させてもらうと、年長者から下の者への高圧的な態度を「パワハラ」と呼ぶようになり、年下の者が活躍できるように、倒れないように支えていた年長者の存在に目を向ける機会を失っている。
目先の成果に踊らされて、支えてもらっている年長者へ目を向けることができないので、自分でできていた感覚に陥ってしまう。
パワハラが言葉として歩かなかった頃は、年長者は怖い存在なので、何となくいつも視界に入っていた。
そのため、陰で支えてもらったことも何となくわかっていた。
リスペクトできたのだ。
しかし、今は言葉で伝えなければリスペクトできない若者がいる。
結構いるのだろう。
若者が成長するために、成果を残せるように、支えているのだから、わかってもらう必要はないが、そういった若者がいることが残念でならない。
そういった若者はネガティブな深みに入ってしまったら、立ち直れないだろうな。
自分ができないということを認識した時に、1人で高く積み上がった自信という塔が一気に崩れ落ちてしまうのだろうか。
その塔は支えという意識がなく伸びていくので、細く高い塔だからだ。
支えてもらっていることを認識するチャンスは結構見せているのだが、気がつかないのだから、いたしかたない。
こうして、人として成長できないZ世代が増えていく。
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